自分自身を俯瞰するブログ

自分自身の俯瞰、思考の整理のために始めました。

久しぶりに書きたいと思ったのでのんびり再開&ミソジニーへの衝撃

自分にお久しぶりですと言いたい。

この数か月自然災害の影響で全く記事を書く余裕がなかった。

睡眠の質もさらに低下し、ガタガタに。

ただ、この間で、自分に休むことを本当に許せたこと、寝室からスマホを追放したことで、休むこと、寝ることに専念できたんだと思う。

災害を経験すると、思った以上のショックと何とかしたいけどどうにもできない(実際ボランティアに参加してみたが今の自分には3時間が限界だった)もどかしい気持ちになる。ニュートラルに戻ってこられずに心身共にガタガタになるということが分かった。

ボランティアの心、誰かの役に立ちたい!このままじゃだめだという思いはとても良いものだが、まずは自分の調子が戻ってこないと何もできないというのが十分に分かった。

 

というわけで、この数週間は観念して休むこと、回復させることに集中していたのです。

 

だいぶスッキリしてきました。

ボランティア云々のくだりから、再度自分の仕事に対しての働き方をぼんやりと考えていたわけですが。

まず、頭脳としては曲がりなりにも12年の仕事の経験値があるので、イベント運営のポイントや何をしようとしているのかの把握は早くなったと思います。ですが、とても男性的な思考を必要とする感じ。できるけど、非常に疲れる。

私自身の脳疲労がかなり大きかったので、できなかったのは当たり前だったんですけどもね。

 

でもなんでこんなに疲れるんだろうって思った。(ヒト酔いしたり、知らない間に相手や場の共感をしてしまったりというのもあるけど)

仕事をしていた時、新しい知識を得ることや患者さんに還元できること自体はうれしいし、楽しかった。ある側面ではやる気の搾取でもあるけど、突き進められるエネルギーもあった。女性的な側面を否定しながら突き進んでいたと思います。

途中でだんだん息が上がってきました。とてつもなくしんどい。と。

アラサーが一番それを実感できる。言葉ではよく聞くけど、実感するとかなりの衝撃。

もう勢いだけでは仕事ができずにどんどん抑うつ状態になっていく感じを自分で観察しているのはしんどかった。

男性的な考え方って女性がするには限界があるんだというのもうすうす感じていました。

 

仕事をしようと思うと、まずは病院でも一般企業でもその社会に入るわけです。

礼儀とか基本的なことはそもそもの常識なのですが、社会構造というか、物事のとらえ方や仕事の流れや考え方は非常に男性優位にできているんだなと感覚的に思いました。

まだ、それがどういうことに繋がっているかのくだりはそれらを論じている本を読んでいないので、言葉にできないけど、感覚的には男女平等ってとても良いように思えるけど、男性のフィールドで女性も同じように働けても、本来持ってる女性の特性を生かしきれないと、とても辛いものなのでは。って思う。

論理的に考えることはトレーニングでできるし、ある程度のルールは必要。だけど、アイデアを出したり、身体に合わせて働くというコトは男女差があってよいと思う。

ずっとバリバリ第一線で働き続けるのが良いと思われているけど、それが必ずといってすべての人に当てはまるわけではないし、女性はバイオリズムが男性と違うので、そこで不協和音をずっと続けていると不調になってくると思う。

女性のマイナスイメージを自分は否定していたというのもあるけど、身体は女性であるし、出てくる感情もできることも女性特有のものであるということ。

ただ世の中の風潮で行ってしまうと、家では女性の役割だけ求められて(これも家事は女がすることっていう能力とは別の蔑視的な見方から)、仕事をしている女性は男性的な働き方も求められて、子どもに対しては母性を。なんて、なんて搾取。そりゃ壊れるわ。

身体への負担や精神的な負担、女性の本来の活かし方が不明瞭なのもあるけど、マルチに考えられるのは特権だと思う。それを活かすと主婦業は本当に職業になる。お母さん、主婦ってすごい。

なんか書きたかった話とは別の方向に行っているかもしれないけどw

何となくネットサーフィンしていて”日本会議”っていうワードから”日本のおっさん”→ミソジニーが出てきたというので、書きながら整理したくてこんな感じに。

ミソジニーというのをちょっとだけ調べてみて、なんかとても頭をかち割られた気分で爽快なんだけど、私も根底にミソジニーの感覚あったなって。家事という行為そのものはとても好きなんだけど、ジェンダー的な役割というか、押し付けがすごく嫌だった。女性性を否定されたというのもあるけど、そのものを日本のおっさん的目線で否定してたんだなって。

 

衝撃だったので、今度は上野千鶴子さんの「女ぎらい」を読んでみようと宣言します。

 

流産から一年経って、ここにたどり着くとは。

子どもを持つことへの見えない不安の一つにこういうのもあったのかもしれない。

不安は一個一個言語化していきましょう。

 

というところで今日はここまで。